私は今回、辺野古で発生した女子高校生死亡事案について、大変重い気持ちで受け止めています。
まず何よりも、未来ある若い命が失われたことに対し、深い哀悼の意を表します。
そして、ご遺族のお気持ちを思う時、言葉にならない思いがあります。
私は一人の政治家である前に、大学生と中学生の子どもを持つ親です。
また、個人的なことで恐縮ですが、高校社会科の教員免許を有する者として、教育というものに対して、強い思いと責任感を持っています。
だからこそ、今回の件について、どうしても看過できない思いがあります。
近年、「平和教育」という言葉のもと、特定の政治的・思想的立場が教育現場に強く持ち込まれているのではないか――私は以前から強い危惧を抱いてきました。
もちろん、「平和」を願うこと自体を否定する人はいないでしょう。
戦争を避けたい。
命を守りたい。
子どもたちに平和な未来を残したい。
それは誰もが共有する普遍的な願いです。
しかし問題は、
「平和教育」という大切な概念が、
特定の思想信条に基づく政治運動へと接続され、
未成年の子どもたちがその渦中へ巻き込まれているのではないか、
という点です。
※以下、参考までに資料を添付します。同志社という固有名詞が出てくるところに、黄色マーカーをしています。









今回、玉城デニー沖縄県知事は、
「思想信条にとらわれることなく、公平公正に平和教育を行うべき」という趣旨の発言をされました。
※以下、RBC報道より引用。

思想信条にとらわれているのは誰ですか?

公平公正になっていますか?
しかし、私は率直に申し上げて、大きな違和感を抱いています。
本当に「思想信条にとらわれていない」のは誰なのか?
むしろ、特定の政治的価値観やイデオロギーに強く依拠している一部の教育関係者、運動家、政治勢力の側こそ、自らの思想信条に深くとらわれているのではないでしょうか。
そして、その大人たちの活動の中に、未成年の子どもたちが巻き込まれていないか。
私はそこを強く危惧しています。
さらに今回、文部科学省が教育基本法との関係について明確な見解を示したことは、極めて重い意味を持つと受け止めています。
教育現場は、本来、子どもたちが自由に学び、多様な価値観に触れ、自ら考える力を養う場所であるべきです。
特定の政治思想へ誘導する場であってはならない。
ましてや、命の危険を伴う可能性のある現場へ、未成年者を事実上巻き込むようなことがあれば、それは教育の名に値しないと私は考えます。
また今回、私自身が様々な資料を調査・確認していく中で、強い危惧を抱かざるを得ない点がありました。
それは、一部の宗教法人や宗教団体、さらには教育関係団体や教職員組合等が、表向きには「平和」「人権」「共生」などを掲げながら、その活動の実態としては、極めて強い政治的・思想的傾向を有しているのではないか、という点です。
私は、宗教そのものを否定するつもりは全くありません。
本来、宗教は人々の心を支え、社会に安らぎや倫理観を与える大切な存在であるべきだと思っています。
しかしながら、今回確認した資料の中には、
・特定の政治思想への強い傾斜
・安全保障政策への一方的反対
・特定の歴史観や国家観の固定化
・教育現場との密接な連携
・教職員組合や各種団体との組織的ネットワーク
などを感じさせる内容が少なからず含まれていました。
さらに資料を読み進める中で、教育・宗教・市民運動・教職員団体などが、相互に接続しているように見受けられる部分もありました。
もちろん、現時点で軽々な断定を行うべきではありません。
しかし少なくとも、
「教育」
「宗教」
「政治運動」
「市民活動」
の境界が曖昧になり、
その中に未成年の子どもたちが巻き込まれていく構造が存在していなかったのか――
この点については、社会全体として冷静かつ真剣に検証される必要があると、私は強く感じています。
私は、子どもたちには、
「自分自身の頭で考える力」
を身につけてほしいと思っています。
右か左かではない。
大切なのは、
一方向から与えられる価値観だけではなく、
多様な視点に触れ、
自ら判断できる力を育むことです。
教育とは、本来そうあるべきではないでしょうか。
今回亡くなられた女子高校生の命は、二度と戻ってきません。
だからこそ私たち大人は、
感情的な対立だけで終わらせるのではなく、
・子どもを政治運動にどう関与させるべきなのか
・教育と政治活動の境界はどこにあるのか
・「平和教育」とは本来どうあるべきなのか
・子どもの安全と命を誰が守るのか
を、真剣に問い直さなければならないと思います。
私は、一人の親として、
そして教育に関わってきた者として、
子どもたちの命と未来が、
大人の思想信条のために利用される社会であってはならない、
そのことを、強く訴えたいと思います。